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大阪地方裁判所 平成8年(ヨ)3500号 決定

債権者

甲野太郎

右債権者代理人弁護士

山下潔

森下弘

乗井弥生

白倉典武

債務者

バイエル薬品株式会社

右代表者代表取締役

ヴォルフガング・プリシュケ

右債務者代理人弁護士

竹林節治

畑守人

中川克己

福島正

松下守男

主文

一  債権者の申立てをいずれも却下する。

二  申立費用は債権者の負担とする。

理由

第一申立て

一  債権者

1  債権者が債務者に対し、雇用契約上の権利を有する地位にあることを仮に定める。

2  債務者は、債権者に対し、平成八年一二月から本件の本案の第一審判決言渡しに至るまで、毎月二五日限り、金八七万四八三円の割合による金員を仮に支払え。

二  債務者

主文同旨

第二当事者の主張

一  事案の概要

本件は、債務者の従業員であった債権者が債務者から懲戒解雇されたところ、右懲戒解雇には理由がなく無効であるとして従業員たる仮の地位の確定と賃金の仮払いを求めた事案である。

二  争点

債権者について債務者主張の懲戒解雇事由が認められるか。

三  前提となる事実関係(疎明資料及び審尋の全趣旨により認定し得る事実)

1  債務者

債務者は、肩書地に本店を置き、医薬品、薬事法による医薬品外品、化粧品等の輸入、販売等を目的とする株式会社である。

2  債権者

債権者は、昭和四八年三月、岐阜薬科大学製造薬学科を卒業し、昭和五一年三月、京都大学工学部大学院合成化学科修士課程を修了し、薬剤師及び臨床検査技師の資格を有する者である。

右大学院修了後、帝人株式会社生物医学研究所、防衛医科大学第二内科医局、株式会社スペシャル・レファレンス・ラボラトリーに研究員として勤務していたが、昭和六一年一二月二一日から、債務者に勤務し、平成八年一二月現在、債務者の研究・開発部門の一部門であるQADに所属していた(但し、勤務場所は滋賀工場内にあった。)。

しかし、債権者は平成五年一二月から、平成八年二月まで、債務者の業務命令により、滋賀工場品質保証部門に所属したままで、債務者が奈良県立医科大学(以下「奈良医大」という。)に委託していた血友病治療薬である遺伝子組換え型血液凝固第八因子製剤「コージネイト」の市販後調査研究(PMS業務)を担当していた。

3  PMSについて

PMSは、債務者の製品を発売後、その有効性、安全性、クレーム処理窓口などの業務を行う部署であり、全体で二五名のスタッフがいた。そして、その内部は製品に応じて、PMSI、同Ⅱ及び同Ⅲに別れていた。抗菌剤、血液製剤、コージネイトを取り扱うのは、PMSⅡであった。

PMSⅡのマネージャーは申立外冨田秀一(以下「冨田」という。)であった。

4  コージネイトについて

コージネイトは人血由来の血液製剤ではなく、ネズミの腎臓を利用して遺伝子組替えにより製造されるいわゆるバイオ製品である。このため、ネズミ由来の蛋白や糖鎖が混入するため、これを抗原と認識して、血液製剤自体を受け付けず、止血管理ができなくなるいわゆるインヒビターが発生する可能性が否定できない。

5  奈良医大に対する業務委託

債務者は奈良医大にPMS業務を委託していたが、その具体的な内容は、コージネイト市販後調査に関する基礎的研究を研究題目として、実施する基礎的研究としては、(一)IgE測定方法の確立試験、(二)抗体検査の実施、(三)凝固因子検査の実施があった。

債権者が担当する業務は、主として、右(二)の業務に関与しており、全国の血友病患者の血漿検体を奈良医大に設置されているELISAの測定器を用いて集中測定(セントラル・ラボ)することであった。その内容は、PMS業務の一部である抗体検査の実施のサポートであった。

6  自宅待機命令

債権(ママ)者は平成八年二月二九日に同年三月一日以降の自宅待機命令を発し、これによって、債権者は奈良医大におけるPMS業務から離れることとなった。

右自宅待機命令は債権者が厚生省や債務者の役員、社員に対して恐喝や嫌がらせの文書を送付していたとの嫌疑がかけられたことによるものであった。もっとも、本件解雇については、解雇事由とはされていない。

債権者は同年四月一日付けで自宅待機命令を解除され、京都薬科大学(以下「京都薬大」という。)へ派遣された。京都薬大での債権者の業務は「前臨床業務」であり、主として抗菌剤の効力の比較試験を行うことであった。

7  解雇の意思表示

債務者は、平成八年一二月二四日、債権者に対して、懲戒解雇する旨口頭で通告した(以下「本件解雇」という。)。翌日、債権者に解雇通告書が送付された。

右解雇通告書における懲戒解雇事由は、以下のとおりである。

(一) 奈良県立医科大学小児科の専修生とし、PMS業務に必要な測定実施業務に従事していたが、平成七年七月より平成八年二月までの八か月間に、規定の手続を経ることなく私用のため購入したと判断せざるを得ないものが含まれている別紙〈略〉機器一覧表記載の物品一九品目(総額一五〇〇万円)を無断で申立外ワールドサイエンスから購入し、同社から上記業務に必要な消耗品一四〇品目以上に小分けした不正納品書及び請求書を提出させたこと

(二) 同社から過払いとして返金を受けた現金一〇万円を勝手に使用したこと

8  債務者の就業規則

債務者の就業規則には、解雇については、懲戒解雇処分に付された者は解雇される旨定められ(債務者就業規則二〇条一項一号)、懲戒については、同規則ではその各号に該当するときは、情状により懲戒するとして、懲戒事由を定めている(同規則一八条三項)。

本件において、問題となるのは、同項の懲戒事由のうち、「会社の諸規則に違反し、又は会社の指示命令に従わず故意に会社の秩序を乱した者」(同項二号)、「許可なく会社の金品を持出し、融通使用した者」(同項四号)及び、「故意又は過失により業務に支障を生じさせ、又は会社に損害を与えた者」(同項五号)である。

9  債務者の有形固定資産購買に関する規制

債務者においては、消耗品の購入などの経費に関する予算(経費予算)と有形固定資産となる機器の購入の予算(投資予算)とは明確に別れていた。

すなわち、経費予算はPMSで総枠を決めて予算化し、その執行については発注さえすればよいが、投資予算については個々の機器についてその取得価格が二〇万円以下でも担当取締役の承認、それを超えた価格の場合には、社長の決裁等が必要となり、執行についても、原則として三業者以上の見積もりをとるなどの手続が必要であった。

10  債権者の生活状況について

債権者の家族構成は、妻及び子が二人であり、妻は病弱であり、また、長男は大学生、次男は高校生で大学受験を控えた状態であって、いずれも債権者の収入に頼っている。

債権者の年収は、債務者からの給与として、年収が一〇二二万九八〇〇円である。

四  争点についての当事者の主張

1  債権者の機器購入について

(一) 債務者

債権者は試薬等(消耗品)については、一品二〇万円未満の範囲で購入する権限が与えられていたところ、これを巧妙に利用して、申立外ワールドサイエンスに対して、業務に必要な消耗品一四〇品目以上に小分けした不正納品書及び請求書を提出させることにより、不正に業務に必要のない器材を購入したものである。

(二) 債権者

債権者の奈良医大での研究調査はすべて(担当部署の責任者が関与する)コージネイト研究世話人会で決定されたのであり、また、PMS業務は、本業務に必要な予算執行を含め、調査研究に必要な器材の購入等も含めて、すべてPMSマネージャーである冨田の指示の下になされたものであり、債権者にはPMSの予算執行におけるいかなる権限もない。右指示ないし承諾がある以上債権者には何らの落ち度はない。

2  現実に購入した機器の必要性について

(一) 債務者

債権者が購入した別紙機器一覧表記載の機器(以下「本件機器」という。)は、いずれも債権者が命じられていた業務の遂行に必要がない。

(二) 債権者

本件機器は、いずれも債権者のPMS業務に必要なものであり、抗体の測定に関しては、従来の抗体測定方法(MileS法)には、限界があったため、新たに開発された抗体測定方法(RELISPOT法)による必要があったところ、これによる測定に必要な機器を購入したものである。なお、奈良医大に存した同種の機器では、右の測定に使用できなかった。

3  申立外ワールドサイエンスから債権者が受領した一〇万円について

(一) 債務者

債権者が受領した一〇万円は、債務者が申立外ワールドサイエンスに対して過払いの状態となっていたことから、その精算として支払われたものであるから、債権者がこれを受領する権限はない。

(二) 債権者

申立外ワールドサイエンスは奈良医大のアルバイト職員を雇っていたところ、その二か月分のアルバイト料として債権者が代理受領したに過ぎず、債務者に損害を与えたものではない。

第三当裁判所の判断

一  本件被保全権利については、債務者が主張する債権者についての懲戒解雇事由が認められるかが争点となるので、以下、その主張にかかる事由ごとに検討していくこととする。

二  債権者の機器購入権限について

1  債権者は、その命ぜられていた職務の遂行に必要な機器を購入するについて、PMSの冨田の指示に従って債権者が購入した旨主張する。そして、この点について、債権者は平成七年四月一一日に冨田から「二〇万円以下の消耗品で分割して伝票を回すように」と指示された旨明確に供述する。これに対して、冨田はこれを否定する供述をしている。

冨田の供述には、PMSの予算の決定方法や金額の定め方、前任者からの引継ぎなどに関して、あいまいな部分も見られる。しかし、冨田が債権者に対して、右のような指示をしていなかったことについての供述部分は明確であり、債務者において、本来正規の手続きで購入されるべき固定資産について、それまで奈良医大から必要性を示唆された機器(ディープフリーザー)については正規に購入した経緯からすると、その制約を回避する目的でなされる債権者の申立外ワールドサイエンスに対する購入方法を指示したとは考えにくい。このように、債権者の主張は採用することができないから、債権者は債務者に無断で、しかも、正規の購入方法によることなく本件機器を購入したことに帰する。また、債権者は正規の購入方法を知らなかったなどと主張するけれども、わざわざ申立外ワールドサイエンスに対して、購入品目が分からず、代金の単価も二〇万円未満になるような購入方法を指示していることからして、到底採用することのできるものではない。

もっとも、冨田による予算の決定やその執行の管理についてのチェックが甘かったと見る余地はあり、この点について冨田に落ち度があったとしても(なお、冨田は債務者を平成八年四月一六日付けで退職している。)、それゆえに債権者の行為が正当なものとなるものでもないから、以下において、当該機器購入の必要性について検討していくこととする。なお、その必要性については、債権者が右のような不正な購入方法により債務者に無断で本件機器を購入していることからして、相当程度の必要性がなければならず、債権者がその判断で必要と思料しただけでは足りないと考えられる。

2  デジタルビデオカメラなどについて

(一) 債権者はデジタルビデオカメラ(別紙一覧表11)は、ウサギの発熱実験において、体温計がウサギの肛門から外れたかどうかを確認するために購入したと主張する。しかし、証拠及び審尋の全趣旨によれば、そもそも奈良医大で予定していたのはウサギの発熱試験だけであったことが認められるところ、体温計が外れたかどうかの確認は、体温が継続的に計測されていることから、体温計が外れた場合には室温にまで下がったことと現に体温計が外れていることから確認できることは明らかである。そして、体温を測定することを目的とする実験であるから、その目的のためには、体温計が外れていることさえ確認されればよいのであって、体温計が外れる過程に意味があるはずもない。仮に、発熱だけでなく、マヒやけいれん等を生じていないか観察する必要があるとしても、そもそもこれを撮影したとするビデオテープ等も提出されていない。また、証拠及び審尋の全趣旨によれば、デジタルビデオカメラは債権者の自宅に納品させていること、債務者の追及に対してすぐに返還に応じなかったことが認められ、これらの事情も勘案すれば、債権者の右主張は到底採用できるものではない。

そうすると、デジタルビデオカメラは他に債権者が従事していた業務には何ら使用され得るものではないから、債権者がその私用のために、債務者の費用において不正に購入したことが明らかである。

(二) デジタルカメラ(別紙一覧表8)についても、ほぼ同様に具体的に業務に使用したことを認めるに足りる証拠がない。

(三) 椅子(別紙一覧表5、13)について、債権者は奈良医大の自身の椅子が壊れたり、同医大の助教授らの椅子が古くなったことから、これを取り替えたと主張している。しかし、このような権限が債権者に与えられていたものではないことは明らかであるから、不正に購入したものといわざるを得ない。

3  右2以外の機器について

右2以外の機器については、もっぱら検体の保存や測定などに使用されるものであり、債権者が従事していた業務についてその性質から当然に私用にのみ用いられるものであるとは断定はできず、その意味でいわば汎用性があるといえる。

まず、債権者は、抗体測定方法について、従来の方法(Miles法)はでたらめであったなどと主張し、新たに開発された抗体測定方法(RELISPOT法)による測定のためには本件の機器が必要であったと主張する。しかし、証拠及び審尋の全趣旨によれば、債権者主張の抗体測定方法(RELISPOT法)は、IgE抗体測定に関しては、確立された方法ではなく、「やってみなければわからない」状況であったこと及び抗体について特異的かつ高力価な抗体が入手できない限り、債権者主張の測定方法の差異には意味がないことが認められる。また、債権者が有効な測定方法であると主張する抗体測定法(RELISPOT法)による測定が成功しなかったことは債権者自身が認めるところである。さらに、証拠及び審尋の全趣旨によれば、債権者が奈良医大に持込んだ機器について、例えば、高価なルミノスキャン(別紙一覧表6)について、持込まれたこと自体、直ちに大学関係者には明らかではなく、同医大の嶋助教授ですら「いつの間にか機械が来ていたという感じ」であったという状況であったことやそもそも債権者が主張する抗体測定法(RELISPOT法)が考案された時期は、本件のPMS業務の予算(もとより試薬代等の実費として認められたものであり、有形固定資産の予算は含まれてはいない。)が認められた平成七年三月一日より後であったことが認められるし、また、債務者からは、具体的に債権者が購入した機器が奈良医大から引き去ったために、奈良医大におけるPMS業務に具体的にどのような支障が生じたかについて主張もない。

したがって、債権者の主張はその前提を欠くこととなり、本件機器が債権者の業務に必要であったとは認め難い。

4  以上の本件機器の不正購入は、債務者就業規則一八条三項のうち、「会社の諸規則に違反し、又は会社の指示命令に従わず故意に会社の秩序を乱した者」(同項二号)、「許可なく会社の金品を持出し、融通使用した者」(同項四号)及び、「故意又は過失により業務に支障を生じさせ、又は会社に損害を与えた者」(同項五号)に該当することは明らかである。

しかも、その購入代金は総額で一四四三万三一八四円にのぼるのであり、企業秩序維持の観点からすると、看過し得ない秩序違反というべきである。

三  申立外ワールドサイエンスから受領した一〇万円について

証拠及び審尋の全趣旨によれば、債権者が申立外ワールドサイエンスに対して、本件機器の購入代金として、伝票上は、債権者が指示した試薬類を記載させ、金額が伝票記載のものと機器の購入代金とを合致させるように指示していたが、必ずしも、これが一致せず、約一〇万円の過払いが生じ、これについて、債権者が平成八年四月二六日に奈良医大において一〇万円を申立外ワールドサイエンスの代表取締役である山﨑保正から受け取っていることが認められる。

債権者は、右金員は申立外ワールドサイエンスが奈良医大のアルバイト女性に対して雇っていたことについてのアルバイト料であると主張する。これを認めるに足りる適確な証拠はないものの、仮に債権者以外の者に供する目的であったとしても、債務者が本来支払義務を負うものでないことは明らかというべきであり、右認定のように一〇万円が債務者に対する過払い金の精算として債権者に支払われたものである以上、債務者就業規則の懲戒事由に該当すると認められる。

四  以上から債務者が主張する債権者についての懲戒解雇事由を認めることができ、他に本件解雇について解雇権の濫用を基礎付けるべき具体的事実についての主張もないから、その余の点について判断するまでもなく、本件解雇は有効であって、被保全権利は認められないことに帰する。

五  そうすると、債権者の本件仮処分命令申立ては理由がないので、いずれも却下することとする。

(裁判官 島田睦史)

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